村社 鏡神社
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概 要
社 号 鏡神社
読 み かかみじんじゃ
別 名 当初は三原神社
所在地 兵庫県豊岡市三原730
旧地名 但馬国城崎郡田結郷三原村
御祭神
『国司文書 但馬故事紀』 大石宿祢三原麿
御神紋
例祭日 10月14日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 光仁天皇宝亀10年(779)
本殿様式 不明
境内摂末社(祭神)
稲荷社
歴史・由緒等
旧記に曰く光仁天皇宝亀10年3月大石宿祢三原麿の子正躬を城崎郡大領に任じ正8位下を授く。
次いで
大石宿祢正躬 、父三原麿 を葬り祠 を其の傍らに建てて之を祀り三原神社と称せしを、何時しか社名煙滅し。弘化2年2月京都白川家より山神宮の称呼を受け更に鏡大明神の旧名に替えんと京都吉田家に願いて改正す。明治6年(1873)10月村社に列せらる。
「兵庫県神社庁」
人皇42代文武天皇の大宝元年秋十月、物部韓国連久々比卒す。三重村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称し祀る。
物部韓国連格麿の子、三原麿を以って、城崎郡の大領と為し、正八位下を授く。
(中略)
人皇46代孝謙天皇の天平勝宝元年冬11月、物部韓国連三原麿は、姓を大石宿祢と称す。
人皇49代光仁天皇天皇の宝亀10年春3月、大石宿祢三原麿の子
大石宿祢正躬は、三原麿を葬り、祠をその傍らに建て、これを祀り、これを三原神社と申しまつる。
また主帳(大蔵宿祢味須鳥)に命じ、神社の格例を定め、式典を挙げ、左社を以って式典の例に入る。
『国司文書 但馬故事紀』
一口メモ
県道3号線から日本海に注ぐ
『国司文書 但馬故事紀』(第四巻 城崎郡故事記)に記載がある神社なので気になっていたが、現在資料に三原神社はないので廃れてしまったのかと思っていたところ、三原の村社鏡神社がかつての三原神社であることが分かり訪れた。
集落西端から北に田が広がる谷の西側の丘。道渕に獣よけの柵が張り巡らされている。柵や電気の流れる線が張られているのは、どこでも見慣れた光景になった。柵の扉の止めを外して参道へ。坂の段を左に曲がると目の前に鳥居が見えた。思ったより近い。
律令下では、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備される。中央の官人が任期制で派遣されていた国司と異なり、郡司は、旧国造などの地方豪族が世襲的に任命され、任期のない終身官であった。
境内・社叢
鳥居 参道
境内 本殿覆屋・右に境内社 本殿覆屋
狛犬 よくみるとゴジラの息子ミニラに似ていてかわいらしい顔
扁額「正一位 山神社」とある 左境内社 稲荷社
地名・地誌
結(ゆい)
『国司文書別記 但馬郷名記抄』
伎多由 郷結浦
田結連 この地に住む。故に田結郷と名付く。海童 神(海神社=今の絹巻神社)の後なり。伎多由郷は、「
魚昔 」(魚編に昔)貢進の地なり。この故に名付く。小魚 「魚昔」の地。「魚昔」は古語にて伎多由 または伎多伊 なり。大浜(今の森津・滝・新堂)・与佐伎村(今の下鶴井)・赤石島(今の赤石)・結浦(今の結)・
鳥島 (今の戸島)・三島・干磯浜打水浦 (多分今の二見・上山、あるいは楽々浦も含むか?)久流比(今の来日)・気比浦・白神山・[
魚昔 ](今の田結 )・大渓島(今の湯島)・桃嶋・小島・西刀(今の瀬戸)
「魚昔」を調べると、音では「シャク・サク」。訓で「さめ」
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